駒大苫小牧―早稲田実(06年決勝)

10.1
優勝を決め喜ぶ、斎藤佑樹投手(手前)ら早稲田実の選手たち

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準優勝に終わったが、田中将大投手を胴上げする駒大苫小牧の選手たち

駒大苫小牧(南北海道)000 001 002|3

早稲田実(西東京)  110 001 10×|4

■早実初V 再試合、駒大苫小牧の3連覇阻む

 第88回全国高校野球選手権大会(朝日新聞社、日本高校野球連盟主催)は21日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で5万人の観衆を集めて37年ぶり2度目の決勝再試合があり、27回目出場の早稲田実(西東京)が駒大苫小牧(南北海道)を4―3で破って初優勝を果たし、全国4112校の頂点に立った。駒大苫小牧は中京商(現中京大中京=愛知)以来となる73年ぶり2度目の3連覇は果たせなかった。

 東京勢の優勝は第83回大会の日大三(西東京)以来、6度目。早稲田実と駒大苫小牧は20日にも決勝を戦い、延長15回を終えて1―1で規定により引き分け、この日の再試合となった。

■仲間信じ4連投

 9回2死、早稲田実の斎藤が打席の駒大苫小牧のエース田中に対し力を振り絞る。118球目。144キロの直球で空振り三振。両手を突き上げた斎藤を中心に早稲田実選手の歓喜がはじけた。

 4連投の斎藤はこの2日間、一人で296球を投げ抜いた。ピンチにも表情を変えなかった右腕が優勝にひたすら泣いた。「疲れはあった。でも人生最大の幸せな一日です」。昨夏、西東京大会準決勝で感情の起伏を突かれて打ち込まれコールド負け。以来、どんなことがあってもポーカーフェースを決めてきた。

 ピンチにも動揺が表に出ない理由を斎藤は「仲間を信じる心が余裕を生んだ」と明かす。6回に本塁打を許し1点差に追い上げられると、すかさず野手から「1点ぐらい取り返してやる」と声が飛んだ。その裏、言葉通りに味方が捕手白川の適時打で1点を加えた。

 チームの結束力を生んだ試合がある。今年3月31日。選抜大会準々決勝で横浜に3―13で完敗した。マウンド上で踏ん張る斎藤の姿を見て、チームは考えた。「走塁判断を磨いて、長打力のなさを補おう」。この日の7回2死二塁。4番後藤の左前安打で二塁走者の川西が判断よくホームへ滑り込んだ。「ぼくらの野球が出来た」と川西は胸を張る。

 第1回大会(15年)から参加し、王貞治・プロ野球ソフトバンク監督らが輩出した早稲田実。第11回(25年)と、荒木大輔(西武コーチ)を擁した第62回(80年)の2度、準優勝に終わった。その壁を越えた。「大先輩たちが成し遂げられなかったことをできてうれしい」。斎藤が喜ぶ。

 そんな歓喜に沸く早稲田実ベンチをじっと見つめる選手がいた。2日間で249球を投げた田中だ。「悔いはない」。淡々と語った。

 大会史上、2校目となる3連覇がかかった試合だった。3大会連続で決勝に進んだのは、7〜9回大会の和歌山中(現桐蔭)、3連覇した中京商、65〜67回の桑田真澄(巨人)と清原和博(オリックス)を擁したPL学園(大阪)、そして駒大苫小牧だけ。香田監督は「1回目より2回目、さらに3回目のほうが周りの意識もあり厳しかった」と言った。全国選手権の連勝は14で止まった。

 スタンドに人気が消えたころ、両校ベンチ前で胴上げが始まった。「同世代で一番いい投手」(斎藤)、「最後まで力を残すところにすごさがあった」(田中)。相手エースをたたえた2人の姿も、それぞれの輪にあった。(渋谷正章、五十嵐聖士郎)

■<球音>最後に田中君に勝てた

 早稲田実の斎藤は、こみ上げるものをこらえられなかった。初優勝の心境を聞かれても、いつもマウンドで手にする水色のハンカチを口に当て、すぐには話せなかった。

 「僕が試合でポーカーフェースなのは、自分の気持ちを表に出すと投球が乱れるから」といい、クールを装ったエース。

 次々にわいてくる喜怒哀楽を抑え、打者に集中する作業の連続が、どれほどつらかったか。もう投げなくていいと解放されたとき、様々な思いがせきを切ってあふれた。

 9回、先頭に安打を許し、続けて初球をバックスクリーン左に打ち込まれた。「やばいと思ったが、どっちにしろ3アウトを取らないといけないんだから」

 本間篤から三振を奪い、岡川を二飛に取ったときだ。笑みが浮かんだ。それはほんの一瞬。そんな自分をとがめるように表情は消えた。打席には2試合の決勝で投げ合う田中が立っている。

 スライダー、直球を6球投げて2―1。4球目はボールだったが、147キロの直球を見せていた。7球目の前、丹念にマウンドを整えた。「これで最後だと感謝の気持ちを込めた」。ウイニングショットは速球。空振り三振で歓喜を呼んだ。

 「あそこで三振を取り、田中君に勝てたと実感した」

 7試合に先発し、6試合で完投。1回戦で打者2人だけマウンドを譲ったものの、計948球で、全207アウトはみずからの右腕で奪った。

 「ほかの投手がほえたりするように、自分のポーカーフェースにも計り知れない力があります」。すまし顔の鉄腕がかもす迫力に、数々の強豪は屈していった。
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甲子園の名監督「中村順司監督」

万能型の名将

中村といえば甲子園20連勝の采配、強運と共に多くの一流選手を育てた技術指導の上手さが強調されがちであるが、時には大胆さも見せる万能型の指揮官でもあった。
それが遺憾なく発揮されたのが1983年夏選手権の大会で、PL学園は共に1年生のエースの桑田、4番清原を擁して勝ち進み、準決勝で徳島の池田高校と対戦する事となった。PLも1981年、1982年春と連覇した強豪ではあったが、池田は1982年夏、1983年春に夏春連覇したそれ以上の強豪であり、この夏優勝すれば史上初の夏春夏の3連覇がかかっていた。エースの水野雄仁は剛速球に加え、勝負どころではシュートで詰まらせるクレバーさも持ち合わせた超高校級の投手で、山びこ打線といわれた強力打線がこの大会で猛威を発揮しており、下馬評では圧倒的に池田有利だった。加えて桑田は準々決勝の高知商戦で打ち込まれており、水野自身も、著書で高知商には四国大会で圧勝してる為、準々決勝で当たった中京(現中京大中京高校)よりもPLの方が力は落ちると見ていたという。
この高校生離れした圧倒的な強さを誇る池田に対し、普通なら胸を借りるようなチャレンジャー精神で戦うチームが多いと思われる中、中村は「池田の選手とて高校生」とむしろ選手達には精神面での対等性を強調したという。そして引っ張る事が難しい水野の速球やシュートに対し、「流し打ちなどチャチな事考えるな。思い切って引っ張っていけ」と桑田に指示し、桑田は指示通り2回裏に水野の速球をレフトへ特大の先制2ランを放った。更にこの直後ラストバッターがソロで続き、7番打者もこの後一発も放って、山びこ打線のお株を奪うかのように水野から計3発7点をたたき出し(水野は3回戦の広島商戦で頭に死球を受けており、体調万全ではなかった。準々決勝中京戦では1失点完投しているがデッドボールを受けてちょうど3日目辺りだったため一番影響があったと見られる。)、桑田は投げる方でも池田の山びこ打線を何と完封してしまった。7-0のスコアは普通なら、下馬評通り池田が勝つと予想した時のスコアである。この中村の大胆な指示がなければ、水野に力負けして池田の圧勝だった可能性は高かったと思われる。
年月のたった現在の視点からは、この一戦は歴史上の強豪対決の一つとして語られる事が多く、大番狂わせとは見づらいが、この時の世論は池田が優勝するという見方が大勢であり、この池田の準決勝での敗戦は、一般ニュースでも取り上げられる程の話題でもあった。
選手育成に関しては、無理に型にはめることはせず、合理的な体の使い方を教えたり、野球人としての心構えを教えたりすることで高校卒業後も野球選手としてレベルアップしていくことを主眼に置いた指導をする。


甲子園での成績
春:出場10回・31勝7敗・優勝3回(1981年、1982年、1987年)、準優勝1回(1984年)
夏:出場6回・27勝3敗・優勝3回(1983年、1985年、1987年)、準優勝1回(1984年)
通算:出場16回・58勝10敗・優勝6回、準優勝2回
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甲子園の名監督「高嶋仁監督」

鬼の高嶋

「勝てないチームは指導者が悪いんです。何年も結果が出ないと悩む指導者は辞めた方がいい」
 甲子園で歴代最多タイの通算58勝を挙げている智弁和歌山の高嶋仁監督(63)はずばりと言った。09年12月12日、地元和歌山県紀の川市で行われた講演会。チームを「平成の横綱」と呼ばれるほどの強豪に育て上げた名将は「監督と選手の気持ちがひとつになってはじめてチームは殻を破ることができる。何年やっても選手の心をつかめない指導者は失格」と言い切った。
 では監督と選手の心はどうすればひとつになるのか。高嶋監督は「きっかけ」を逃さないことが大切という。
 前任の奈良・智弁学園では、高嶋監督は超スパルタの鬼監督と選手から恐れられ、あまりにも厳しい練習に耐えきれず、選手が練習をボイコットしたことがあった。直後の選手との対話集会で、高嶋監督は自身が高校時代、初めて甲子園に出場したときの感動と興奮を熱く語り「甲子園は素晴らしい場所だった。あの感動をみんなにも味わってほしい。そのためには練習して強いチームになる以外に道はないんだ」と選手を説得した。「甲子園」という殺し文句は選手の心を決定的に揺さぶり、選手は苦しい練習にも文句を言わず、ついていくようになったという。
 和歌山に移ってからも同様の「きっかけ」があった。
 1980年、智弁和歌山に転任。創部したばかりの野球部は、ほかのクラブからの寄せ集めや野球の経験がない選手も多かった。体力も技術もない。高嶋監督はショック療法を施した。奈良時代のつながりを使って各地の有力校と練習試合を組んだ。蔦文也監督(2001年77歳で死去)が率いたやまびこ打線の池田(徳島)には30点以上も取られて大敗。池田の選手は打撃練習のように打ちまくり、試合はいつまでたっても終わらない。智弁和歌山の選手たちは守備位置やベンチで途中から悔し泣きながら試合をしていたという。
 「まず悔しさを知る。そこからなにくそ、とはい上がるときの人間ほど強いものはない。高校野球の厳しさを知らなかった選手たちが、本気になった瞬間だった。これでなんとかなる、と思いましたね」
 1985年春に初めて甲子園に出場。その後常連と呼ばれる強豪になるまでそう時間はかからなかった。

 「結局弱いチームを強くするためには練習しかない」
 「練習は甲子園に出るため、ではなく甲子園で勝つためにやるもの」
 「高校野球は教育の一環ではない。勝負の厳しさを味わう場だ」
 高嶋語録が次々に飛び出す。
 智弁和歌山は、練習前に100mダッシュ100本、左翼と右翼のポール間ダッシュ100本。炎天下の連戦が続く夏の大会は、最後には体力勝負になるので「これくらいでへばる選手はいらない」と高嶋監督は平然と言ってのける。
 バットの素振りの量も半端ではない。
 打者のストライクゾーンは高低、内外角で9つに分割できる。それぞれ10スイングで90本。ここからがすごい。相手投手は右、左、変則投法と3タイプあるので、90×3で270本。球種は大別して速球と変化球があるので270本×2で540本。さらに得意コース100本、苦手コース100本を加えて合計740本。これが智弁和歌山では「最低ライン」になっている。
 「1年間、毎日やれば他校と大きな差になって成果が出る。そしてそれが選手のここぞ、というときの自信になるんです」
 講演には、会場に近い貴志川高の監督、部員もいて、メモを取りながら聞いていた。
 「どうぞまねしてください。まねされたら、うちはその2倍やって貴志川を倒します」
 鬼の高嶋、恐るべし。


甲子園での成績
智弁学園:出場3回・7勝3敗(春:出場2回・5勝2敗/夏:出場1回・2勝1敗)
智弁和歌山:出場29回・56勝26敗・優勝3回・準優勝3回(春:出場10回・21勝9敗・優勝1回・準優勝2回/夏:出場19回・35勝17敗・優勝2回・準優勝1回)
通算:出場32回・63勝29敗(勝利数は2011年夏現在、歴代1位)・優勝3回・準優勝3回
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